2017年1月に、一人目の息子が、私たち夫婦のもとへとやってきました。ものの見方ががらりと変わり、たくさんの気付きを与えてくれます。その気付きを、みなさんと共有したいと思っています。特に、子供との接し方や考え方に悩む親御さんに読んでいただけると幸いです。

「これは何?」と聞いてるの?のワナ

こんにちは!

 

何やら、保育園で、RSウィルスとやらが流行っている様子。新しい病原体は、次々と生まれるのですね…。

しっかり運動して、友達と遊んで、栄養をとりましょう!

 

子供は、前世で覚えたことは、おおよそ忘れているようですし、初めて見たものに何にでも興味を示します。好奇心を持つことは、別に子供の特権というわけではありませんけれど。

 

1歳もすぎる頃、うちの息子もいろんなものに興味を持ち始めました。

出掛ける事も多くなり、

 

「うぉ」とか言って、醤油差しを持って渡してきたり、

「むぅぅー!」とか言って、銭湯を指差したりします。

 

その時に、多くの大人がこう言います。

 

「それは、醤油を入れるやつだよ」

「あれは、銭湯っていって、みんなでお風呂に入るんだよ」

 

最初は特に疑問は感じなかったのですが、ふと、

 

「その回答は、これって何?っていう質問があってするものやんなぁ」

 

と思いました。

 

つまり、「あなたはあれがなんなのか知らないんだね。だから、私が答えてあげよう」

 

と、いう無意識の表れなのです。

 

いやいや、それは屁理屈だ、と思うかもしれませんが…。

たしかに、「これなぁに?」と子供が思っている事もあるでしょう。

 

 

 

でもですね、ちょっと観察してたんです。

 

醤油差しを嬉しそうに差し出した晃生に、お母さんは、「それは醤油差しだよ」と言った時に、

 

「・・・( ゚д゚)ショボーン

 

という顔をして、すごすごと醤油差しを机の上に置きました。

 

「えー!今、絶対なんか違うこと言おうとしてたやん!」

 

と。

 

 

 

そこでみなさん、「じゃあ、何を聞いたらいいの?」と疑問に思うかもしれません。

 

別に、何も聞かなくてもいいと思います。

もしくは、何か気になることがあれば、その都度、考えて聞きましょうよ!

想像力を働かせられる大人になりたいものです。

「眠たいんだね」のワナ

こんばんは。

 

はてさて、息子は、何歳ぐらいから、ちゃんとした単語を使い出すのかなぁとワクワクしている私です。

 

さて、まだ、1歳半のうちの晃生は、言葉を使って、なにかを要求することができない状態です。

最近は、指さしをしたり、見つめて来たり、トントンと足を叩いて来たりと、手を引いたりと、様々な表現をしていますが、やはり概ね今の所は、「泣き叫ぶ」と言うことが多いです。

 

そこで、ついつい私たちは、観察することを怠って、

 

「眠たいんだね〜。」

「お腹空いたんだね〜。」

 

って、決めつけちゃいがちです。

 

確かに、論理的に考えて、ご飯を食べてお腹が一杯で、昼寝もあまりしていないと言うことから、

眠気を感じている可能性が高い、と言う予想はできるけれど。

 

もしかしたら、「前世、犬だった頃に可愛がってくれていたご主人の奥さんが病気で亡くなったときのことを思い出して悲しくなった」のかもしれないじゃないですか。

大人っていうのは、想像力がなくって困ります。笑

 

妙に賢い私たちは、相手を観察したり、想像力を使って相手を理解して、そこから考えることを怠って、頭で考えてしまいがちです。

 

逆に、自分がそんな風に言われたらどう思うのかなぁ、と考えてみたいと思います。

 

「うーん…もうこんな歳で、将来が不安だ…うるる…」

と、私が泣いていて、

 

「ああ、まぁ30代に入って子供も生まれたら、そうだよね、うんうん。最近もそういうひとはおおいみたいね」

 

と言われたら、

 

「なんやねん!もう、この人に絶対悩みは打ち明けない!」

 

って思うんじゃないかなぁ…。

 

常に常に、目の前のすべてのものは、移り変わり、同じものはないんだ、って考えていきていきたいです。

 

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自転車のカゴに乗りながらも寝る晃生⬆️

辛くてどうしようもない時は。

こんにちは。

 

色々偉そうに書いている私にだって、辛くてどうしようもない時だってあります。

皆様に教えを説いているつもりではなく、完全に自分を戒めるために書いているブログでございます。

 

さて、繰り返しますが、辛くてどうしようもない時が、私にもあります。

 

そんな時、私は今まで、寝る、スネる、誰かと喧嘩をしてしまう、YouTubeをずっと眺める、何もしない、どうやって自殺するかを考える、などなど…非常に内省的な対処をしてまいりました。

 

最近、とても辛い出来事がありました。

初めは、今まで取っていたような内省的だったり、本能的だったり、という態度を取ってしまい、時間が経つことに身を任せていました。

 

それが、「紙の端で、指を切ってしまった」場合なら、一週間もしないうちに切り傷は完治するでしょう。

 

でも、感情の問題は、一時期弱まっても、また何かの折に再発することがあります。

 

そんな時は、

 

「誰かの役に立つと思えることを、とにかく見つけて、実行すること。」

 

これに尽きます。

 

ホリエモンが言っていたんです。

「暇でやることないから、鬱になるんだよ」って。

 

そして、アドラーはこう言います。

「人の役に立っているという感覚を持てた時に、自分には価値があると思えて、自分が好きになれる」って。

 

ということは、

 

「人の役に立とうと、自分を忙しくしてみる」

 

ということを、私はするようにしています。

 

ただ忙しくするだけだと、ネガティブから逃げ回っているようで、結局それはネガティブを意識しているのと同じことです。

 

誰かの相談に乗ってあげる、引越しの手伝いをしてあげる、一緒に買い物に行ってあげる、仕事を手伝ってあげるなどなど…

 

なんでもいいです。とにかく、必死に誰かの役に立とう、としてみてください。

そのうち、気分も晴れて、前向きで建設的に考えられます。

 

そんな風に、私は生きていきたい。

カウンセラーやコーチは、孤独を感じることを覚悟しておかなくてはならない

NLPトレーナーという仕事をしているので、コーチングやセラピー、カウンセリングをやっている人と出会う機会はよくある。

 

大雑把に言えば、コーチやカウンセラーが、クライアントと呼んでいる人たちが自立していくことが目標である。

 

その目標を達成した時、必ずしもあなたは好かれているというわけではない。

 

セッションの最後の最後で、相手のカンに触ることを言う必要もきっとあるだろう。

「なぜ、あなたにそんなことを言われないといけないのか?」と。

 

しかし、私たちが気に留めておかなければならないことは、カウンセラーとクライアントが笑顔で握手をしてお別れをするのが良いことばかりではないということである。

あくまで、クライアントが自立していくことだ。一人で立って歩くことが大事なのである。

 

クライアントに嫌われて落ち込んでいるときは、自分が好かれようとしていたということである。

 

本当にクライアントの自立のためになると思ったのであれば、あなたは孤独に耐え、あなたの信じることを実行していくしかないのである。

 

クライアントを気持ちよくさせることだけが、セッションではない。

そこまで長期的に見ることができて、カウンセラーとしての意義があると言えると思う。

 

そんな覚悟を持って、自分は生きていきたい。

「ゆらのとノート」の由来

 私なりの思いがあって、この「ゆらのとノート」というタイトルにしています。

 

「謙虚な姿勢で、思い切って行動しよう。そして、在り方も大事にしながら、同時に技巧の鍛錬も怠らないでいよう」

 

という思いです。 

 

 私は、どうしてもテクニックや知識に頼りがちになり、理論武装をして頭でっかちになりがちです。そのくせ、えらそうに虚勢を張り、強がりを言ってしまいます。

 だからといって、何も学ばず、自己流でいれば、それこそ自己満足ではないでしょうか。

 

 やるときはやる、考えるときは考える、進むときは進む…決して傲慢にならず、謙虚な姿勢で、一点を刺す…そんなあり方を心に留めておきたいのです。

 

 百人一首の四十六番歌を、ご存知でしょうか。

 

「由良の戸を 渡る舟人 かぢを絶え ゆくへも知らぬ 恋の道かな」

---曽禰好忠(そねのよしただ)

 

 「由良」は、京都から若狭湾に流れ出る一級河川由良川のことです。河口周辺は、淡水と海水が出会うところで、水の流れは複雑に変化します。なので、小型の舟が河口を渡るには、相当の技量が必要です。

 

 そして、歌は「渡る船人かぢを絶え」と続きます。「絶え」というのは、消えるという意味で、つまり、河口のような操船の難しいところにいながら、かぢをなくしてしまっている状況を上の句で詠い、それを下の句で、深い霧の中を行くような「恋の道」とつなげているわけです。

 

 作者の曽禰好忠は、大変に優秀で、天才とも言える歌人でした。同時に、大変プライドの高い人物でもありました。

 

 こんな逸話が残っています。

 ある格式高い歌の集まりに、曽禰好忠は、招待もされていないのに、「私は招待されて当然の人物だ」と勘違いし、ちゃっかり招待席に座ってしまうのです。結果、会場から追い出されてしまいます。

 

 「かぢを絶えゆくへも知らぬ」となってしまったのは、歌のために我を張りすぎ、自分が見えなくなってしまった曽禰好忠本人だったのです。

 「恋の道」とありますが、実際に行方がわからなくなっていたのは、「人の道」だったのかもしれません。

 

 ひとつまえの四十五番歌と比較して考えましょう。

 

「あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな」

---謙徳公

 

 超訳すると、「あなたはまさか…私と付き合わないような、憐れでお気の毒な人なんかじゃあありませんよね。そんなことをしたら、あなたの人生は、ただむなしく死んでいくだけの人生になってしまいますよ」です。

 

 謙徳公は、普段は物静かで控えめな性格であったが、大事な女性に対しては、ものすごい強引さを発揮したわけです。「俺があなたを最高に幸せにしてさしあげる。その地自信がある!」という思いです。日ごろはおとなしい人物が言うからこそ、言葉に迫力と真実味が増します。

 

 さらに一つ前の、四十四番歌も見てみましょう。

 

「逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし」

 

 超訳すると、「男女関係など、この世からなくなってしまえば、相手のことも、自分のことも恨まずにすむのに…。でも、だからこそ恋愛は素晴らしい!男女が愛し合うことによって、時代は紡がれていくのだから。」

 

 一世を風靡した天才であっても、やがては老い、この世から消えていきます。後から生まれてくる人は、常に自分の前を歩いているのです。その謙虚さを忘れてはいけません。

 

 つまるところ、天狗になって、斬新な方法で歌を作っていたと勘違いし、得意げになり、「言葉遊びに終わっている」といわれた曽禰好忠でしたが、私は、態度と同時に、技術も大事だということも胸に留めておきたいのです。

 

 歯を治せない歯医者さんに、いくら情熱があっても、診察してもらいたいとは思わないのと同じようにーーー。

 

参考文献:ねずさんの日本の心で読み解く百人一首~千年の時を超えて明かされる真実~ 著:小名木善行

「なんども言わせないで」のウソ

小さな子供と過ごしていると、苛立ちを覚えたり、腹が立つことはよくあります。

 

例えば、

 

ティッシュを使いもしないのに、何枚も何枚も出す

・携帯電話をかじる、なめる、落とす

・ゴミ箱を漁る

・棚の中のものを全部出す

 

 

こんな時に、ついつい、

 

「もう!昨日も言うたやん!何度も言わせないでよ!」

 

と、言いたくなります。

 

気持ちはわかりますが、親がするべきことではありません。

それは理想の親として、そんなことを言ってはいけないと言う意味ではありません。

 

その子が何をするのかは、その子が決めることなので、私が決められることではありませんし、本来は指示すること自体もおかしな話です。

 

なぜ、この言葉を言いたくなるのかと言うと、

 

「自分が相手を、怒りという感情を使って、子供をコントロールしたい」からなのです。

 

言葉で根気よく説明することができないと思っているので、手っ取り早く、怒りという感情を使って、子供をコントロールしようとしてしまっている結果、

 

「もう!何度も言わせないで!」

 

と、言ってしまうのです。

 

何度も言えばいいのです。

繰り返し繰り返し。

時には、言い方や、やり方を変えながら。

自分の伝え方に問題があるのです。

 

私たちにできることは、いつだって、そんなことぐらいです。

 

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⬆︎何度言っても、シャボン玉の液体の方をほしがる晃生と、お友達のひかりちゃん

「乳幼児向けのオモチャ」のウソ

「このオモチャは、○歳〜○歳用です」

 

という表記をよく目にします。

 

確かに安全性の面で、あまりに小さい部品などが含まれていると飲み込んでしまったり、手が切れるものなどがあれば、危ないので、年齢を制限する必要はあるでしょう。

 

そもそも、おもちゃ自体が、私はちょっと疑問です。

まぁ普段ゲームをする私があまり偉そうなことも言えないですが、

まだ幼い間は、家にある何気ないもので遊んでもいいのではないでしょうか?

 

何かにつけて、すぐにぬいぐるみを与えたり、絵本を与えたり...

置いてあって、子供が自発的に興味を示すのならまだ分かります。

 

私はいつも、その辺にあるハンガーとか、イスとか、なべ敷きとかで、子供と遊んでいます。

 

知育玩具とか言って、子供の創造性を...とかって言ってるけど、

 

身の回りのもので子供と遊べないのは、大人にその想像力が乏しいからじゃないですか?

 

子供はハンガーをみて、「なんじゃこりゃ?」と思う。

 

大人も一緒にハンガーをみて、「これって本当はなんなんじゃこりゃ?」

 

って、一緒に見て首を傾げるような付き合い方がしたいと思います。

 

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↑友人の携帯をみて、「なんなんじゃこりゃ?」の晃生